小説を見てみると、時系列があり、会話があり、それはまるでテレビや映画と変わらないということに気が付いたといいます。
しかし、それなら、なぜ小説を読むのだろうかと、思いをめぐらしたそうです。
映画などでは、成り立ちえない。小説でしか作れない独特なものがあるはずであり、いったいそれは何かということを考えたといいます。
ある小説で、語り手の記憶だけで、話が流れているものがある、それは30年前の出来事が、2日前のものと直結していて、語られる。そのダイナミックな展開、感触に魅せられたといいます。
それは決して映像では伝えきれない、紙の上でしかなしえない、体験できないことだと気が付いたそうです。
その感触というものを体験するために、小説を読む必要があるといいます。
ある物事を思い出すとき、それは写真の様に脳裏に浮かび上がるが、決して鮮明ではなく、周辺はぼやけた絵のようにあいまいで、それを語るにも映像では鮮明過ぎて、感触をつたえられない。
そこにも、小説の価値があるといいます。
人間は真剣な話をするとき、重要な話をするときは、信頼できないものなのだ
面白い例をあげていました。たとえば、久しぶりに会った友人が、「離婚したんだ。でもその選択は最善でよかったと思う。今は自由を満喫しているし、最高さ」といったとして、それをそのまま真に受ける人は、いないといいます。
大人になると、みんな賢くなり、人は方便をいうものだとしっていて、人は決して本心を明かさず、飾って話すものだと学んでいるからといいます。
小説は、そういう信頼できない人間の語り手であり、読むことで、それを見抜くスキルを培うといいます。
そもそも人は自分にも嘘をつき生きていくものだと。
人はどのように、自分に向き合い、ひけらかし、そして避けるのか。
人間は後悔のない人などいない。だからこそ、共感し、同情もする。自分自身を振り返りたくもないし、それでいいだろうという思いで生きている。
そこで記憶というものがテーマになった「忘れられた巨人」(原題 The Buried Giant)の話になりました。
この話は、人々が1時間以上前を思い出せない世界です。原因は山にすむドラゴンの吐く息が、人々の記憶を消しているという話です。
人々は争います。そのドラゴンを守ろうとする人と、殺そうとする人。
つまり忘れたい人と、記憶を忘れたくない人にわかれるのです。恐ろしい記憶は忘れてしまいたい、わすれることで争いも起こらない。しかし、愛する人を持っている人はその記憶を失いたくないものです。
小説はメタファー(隠喩)をよく持ち出すといいます。
メタファーに限らず、言葉というものは、決してその言葉通りではない。さらに小説というのは立ち位置によっても変わっていくものだといいます。
執事の仕事に誇りを持ち続ける主人公が、戦後、時代遅れになってくる状況に葛藤する話ですが、
しかし次第に、主人公の語る内容がどんどん変わっていき、自分に正直になっていくのがわかるといいます。
信頼できなかった語り手が、信頼できるようになっていく。
読み終わった後、読者が気づかない程度のメタファーが、思い返したとき力強く威力を発揮するということがあるといいます。
それが小説の伝えるところであり、その伝わることには重要な真実が含まれていると読み手に感じられるから、小説に魅かれるのだといいます。